浅田飴

浅田飴というとなぜかしら永六輔の、あの朴訥としているけど、

どこか意地の悪そうな声を思い出さずにはいられない、

親方@まだ風邪っぴきでやんす。

浅田飴のCMって永六輔がやってたかな?

「コホンと言えば龍角散」は、確か永六輔。

オロナミンCと言えば上戸彩ではなくて、もちろん大村昆だし、
 
由美かおると言えば、田舎のバス停なんかで見かけた

「かとり線香」のホーローの看板。

そして忘れちゃならない水戸黄門での入浴シーン(笑)

「ボンカレー」の看板もよく見かけたような気がするけど、

あの人はいったい誰だったんだろう?いまだに謎だ。

嗚呼、なんだかどこまでも昭和のかほりのする思い出ですなぁ。

やはり昭和の話題が続くのであるが、私が幼少のみぎり、

まだ世間からは「神童」と呼ばれ「末は博士か大臣か」と、

両親から愛でる様に育てられていた30年以上も前の遠い昔。

寒風吹きすさぶ中、鼻を垂らして表で雪合戦などしている近所のガキどもに、

半ば軽蔑の眼差しをむけながら「ファーブル昆虫記」など

読書にいそしんでいた「ぼく」であったが、

よく扁桃腺を腫らして学校を休んだ。

ついでに言うと、体温計を毛布に擦りつけて温度を上げる事を覚えたのもこの頃で、

午後3時を過ぎて下校時間になると、不思議に具合が良くなるのもこの頃だった。

そう、病弱でか弱い「体力」よりは「知力」で勝負の少年時代だったのだ。

扁桃腺が腫れると、唾液を飲み込むだけで飛び上がるほど喉が痛み、

よくプリンやヨーグルトなど、普段中々口に入らないものを

この時ばかりと母親にねだって、買ってもらえるのが嬉しかったりした。

さて浅田飴である。

クールとニッキ、そして水飴タイプなどもあったように記憶しているが、

なんといっても子供達に人気があるのはクールだったと思う。

あの昔変わらぬデザインの蓋を開けて、

ガラガラと音を立てて飴を取り出すスタイルは今もそのままで、

一度に5粒も6粒も口に入れて、よく母親に叱られたことを思い出す。

「涙がでるほど喉が痛いのに、どうしてやさしくしてくれないのだろう」などと、

子供心に思ったりして悲しくなったが、

生まれて初めて自分で買い求め、この歳になって理由が分かった。

一缶790円、びっくりの値段だった。

当時はいくらだったか知らないが、貧乏な我が家にはきっと高価なものだったんだと思う。

かーちゃんゴメン。仏壇の引き出しに隠してあった浅田飴、

いつの間にか無くなるのは「ぼく」がおやつ代わりに隠れて舐めていたからです。

ついでに言うと「肝油ドロップ」も一日の個数を守ったことがありません。

腹空かした子供だったもんなぁ「ぼく」(笑)

博士とか大臣にはなれなかったけど、いつか親孝行するなりよ。

3 Responses to “浅田飴”

  1. Tom. より:

    アレ〜? 「せき・こえ・のどに」じゃなかったっけ?

    今は「こえ」より「たん」に効くんだw

    龍角散は永六輔じゃなかったような・・・

    「ボク」んちには、世界こども文学全集全50巻ってのがありましたが、「南総里見八犬伝」しか読んだ記憶がありませんw

    大分上野丘vs利府の試合を激しく望む。

  2. 福太郎 より:

    今じゃ、宮城県内外にファンを持つ『アジアン雑貨 ガネーシャ』のプレジデントじゃないっすか!!

  3. 親方 より:

    >Tomさん
    「くしゃみ、鼻水、鼻詰まり」ってのもありましたね。
    コンタック600だっけかな?(笑)

    >大分上野丘vs利府の試合を激しく望む。

    実現したあかつきには、諭吉君でもニギリますか?
    ま、利府強いっすけどね( ゚Д゚)

    >福ちゃん
    おぉ!さんきゅー福ちゃん。
    でも、博士とか大臣の方がよかったなぁ(笑)